タイ映画の歴史


1.タイ映画の草創期

数年前頃まではタイに映画を紹介したのは日本人である、と一般的に信じられていた(映画のことを「イープン(日本の意)」と呼んでいた)が、タイ国立フィルム ・アーカイヴの創立者であるドーム・スックウォン氏によれば、「最初」であったのは、国籍不詳のS.G.マコフスキー氏が主催した「パリのシネマトグラフ」というフィルムの上映である。 仏人ルイ・リュミエールによって創案されたシネマトグラフは1895年12月に初めて上映されたが、前述のタイ王国での初上映は1897年6月のことであった。
タイでの映画史の一頁目を開いたのは西洋人であったが、だがしかし,タイ最初の常設映画館をはじめたのは1905年にタイへ渡った日本人興行者であった。
初めての「映画」体験にタイは喫驚し興奮した。そして当時の国王の弟サンパサート・スパキット公爵が1900年に初めて国産の映画製作に成功した。

日本人による映画館経営が好調であった為、タイ人投資家は競って映画館を経営するようになったが、その結果として日本人経営の映画館は10年後に廃館に追い込まれた。多くの劇場ではヨーロッパからの輸入映画を上映した。
当時のタイはまだ映画製作技術の水準が低かった為、劇映画ではなく実写フィルム中心であったが、輸入映画が刺激となり、徐々にそのレベルは上がっていった。

第一次大戦の後、欧州映画産業が低落した結果、アメリカ映画が輸入されるようになってアメリカ映画ブームが起きた。この時タイでは国産ドキュメンタリー映画 が作られるようになった。
1922年にタイ国鉄は広報手段としての映画に着目し、ニュース映画部を創設。映画製作を始めた。これがタイで最初の映画製作機関である。
1924年に映画監督ヘンリー・マグレイをリーダーとするハリウッドの映画チームがタイ(Siam)を訪れて、国鉄ニュース映画部との共同製作により、タイの恋愛映画「ミス・スワン(Nangsao Suwan)」を完成させた。このタイ人キャストのみで演じられた作品はタイで最初の劇映画となった。

一方、業界内の過当競争の結果、「サィアム映画会社」は、外国映画輸入、バンコクの映画館経営、等を独占するようになった。


2.タイ映画の成長期

1927年頃、タイは深刻な経済危機に直面した。この時に解雇された公務員たちが数人集まって「タイ映画製作会社」を設立。これがタイ映画史上、初の民間映画製作会社である。ところが民間製作会社初の劇映画となったのは、資産家と新聞業界人によって設立された「クルンテープ映画会社」の作品であった。
この劇映画「二重の幸運(Chok Song Chun)」は、35mmモノクロ・サイレントであり、タイ人のみで製作されたタイで最初の映画である。
この直後に「タイ映画製作会社」による「思いもかけぬ(Mai Kit Loei)が完成している。この両作品の製作には国鉄ニュース映画部の機材が使用された。
2つの作品のいずれもが興行的成功を収めたため、多くの映画製作会社が誕生し、沢山の映画が製作されるようになったが、当時の映画は全てサイレント、モノクロ、35mmである。また、こうした流れの中で多くの映画スターも誕生した。

同じく1927年にハリウッドでは、トーキー映画の製作に成功。この技術は3年後にタイに広まって、バンコクでもハリウッド製トーキー映画が上映されるようになったが、上映の際はタイ人弁士が語るタイ語同時通訳が行われた。
この時期はトーキーシステムの技術改善が目覚ましく、ハリウッドで生まれた新技術はほどなくしてタイに入り、次々に新しい技術による作品が生み出された。
この頃、タイで初めての近代的コンクリート建築の大スタジオが建設された。

1937年頃までは好況を続けていたタイ映画界だが、1940年頃から多くの製作会社は苦境に陥る。第二次大戦の影響は深刻で、映画製作は非常に困難な作業となった。1941年にタイは経済危機となった。日本軍もタイに上陸した。戦時下の景気低落に加えてこの年の大洪水が映画産業に追い打ちをかけた。バンコクは数ヶ月間冠水し、各種スタジオも損害を被った。政府はスィークルン・トーキー映画会社に委託して、映画「洪水は旱魃よりまし(Nam Thuam Dee Kwa Fon Laeng)」を作らせて、被災者への励ましとした。しかしこの会社もこの作品を最後に廃業した。


3.タイ映画の復興とさらなる繁栄

タイ映画の制作者たちは、戦争中に16mmカラー映画に注目するようになった。その簡便性、経済性が幸いして、映画製作本数は急上昇し、当初は年間10本程度だったのが、後には年50本にもなった。35mm作品も作られたが本数は少なかった。
この時期の映画はまだサイレントであり、弁士の声が聞こえてくるサウンドの全てであった。

1956年、プラティープ・コモンピット監督が映画「虎の如く(Chat Suea)」に新人男優ミット・チャイバンチャー(Mit Chaibancha)を起用してから、ミットは国中の映画ファンのアイドルとなった。彼のよき相手役となった女優がペッチャラー・チャ オワラート(Petchara Chaowarat)で、絶大な人気があった。映画製作者たちはこぞってこの二大スターをキャスティングするようになった。

1967年2月、タイ映画製作者協会が設立された。その目的は政府に映画製作への振興育成措置をとらせる事にあった。

1970年にランスィー・タッサナパヤックの監督で、ミット主演のミュージカル映画「田舎の恋の魅惑(Mon Rak Luk Thung)」は大ヒットとなり、封切り映画館でのロングランと過去最高の興行収入を記録した。これがきっかけとなり、16mm制作者たちは35mmへの転向を考えはじめ、さらに同年10月のミットの突然の事故死(新作撮影中のヘリコプターからの墜落死)をひとつのきっかけとして16mmは使われなくなっていった。ミットがそれまでに出演した映画は300本以上にのぼる。
1971年から1976年までに製作されたタイ映画は全て35mm、アフレコ、シネマスコープ使用である。35mmは市場を占有するようになり、年間200本の映画が生産されるまでになったことで、タイは世界第10位の映画生産国となった。
70年代後半にはタイ映画史に残る印象的な作品がいくつか製作されている。
1977年の「田舎の教師(せんせい)」(スラティー・パータム監督)は、多くのタイ人に奥深い感動を与えた最初の作品かもしれない。これはイサーン(東北タイ)の貧しい村で撮影された映画で、バンコク出身の若者が教師として小学校の子供たちに形式的ではない生き生きとした教育をする姿を描く作品で、上映された劇場では、上映終了後も感動のあまり、立つことすらできない人々が多く見られた。
1978年の「タクシードライバー」(原題「トンプーン・コクポー」)は、王族出身の監督によって作られた。

チャトリ・チャラーム・ユーコン

、通称プリンス・チャトリ、がその人である。この作品は東北タイ出身の貧しい若者がバンコクという大都会で舐める辛酸の数々を通して人間の本質を深く抉り出してゆく傑作のひとつである。またチャトリ監督は1981年に日本の山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」 をタイ風にリメイクした「もしあなたがまだ私を愛しているなら」もあり、日本人にとっても興味深いものがある。

チュート・ソンスィー

監督はタイの古き良き時代の伝統と文化を未来へ継承しようという意志を滲ませた味わい深い作品を製作している。「傷あと」「深海の宝石」「アナザーワールド」「ムアンとリット」等、どれも見る者の心に訴える力がある。また、タイで有数のヒットメーカーでもある。


4.タイ映画の現在

1980年頃まではタイ映画の製作本数は高い水準を保ってきたが、作品の技術と質の点ではまだ満足のいくものではなかった。同じ頃、ハリウッド、香港映画は隆盛期を迎えつつあり、タイ国産の映画は次第に苦しいマーケット状況に対応せざるを得なくなってきた。
タイ映画製作者協会と政府は、外国映画輸入の抑制を目的に関税障壁で対抗したが、テレビ、ビデオの普及もあり、状況を根本から覆すまでにはいかなかった。

1980年代後半以後の現在、タイにおける大手で安定した映画会社は「ファイブ スター・プロダクション」一社のみであるが、他の中小プロダクションも意欲的に作品を発表している。90年代に入って新しい世代のクリエイターたちが続々登場し、技術・感性の面でも発展が著しいものがある。また、様々な分野・カテゴリーの作品が製作されるようになり、その作品が外国での上映、受賞等も珍しくなくなってきた。また、製作機材も最新のものが導入されるようになった。アメリカのスティーヴン・スピルヴァーグ監督が映画製作の際、タイの機材を使用するためにタイを訪問することもあった。

日本人にとっても興味深いタイ映画がある。それは現在迄に3度の映画化とテレビドラマ化もされた小説「メナムの残照」である。これは太平洋戦争中にタイに進駐していた日本軍の将校小堀と美しいタイ人の娘アンスマリンのロマンスを描いた作品である。原作者トムヤンティは上院議員も務めたこともある女流作家。

現在のタイを代表する国際派女優

チンタラー・スカパット

は、80年代後半 にスクリーンデビューした。 米映画「グッドモーニング・ベトナム」にも出演した彼女は、 美しさと持ち前の感性による抜群の演技力で不動の地位を獲得していった。 日本で最も知名度の高いタイ女優と言える。 映画「メナムの残照」にも主演している。

以上、タイ歴史の概要を簡単に紹介してきたが、現在では字幕付きのタイ映画ビデオが日本でも発売されるなど、タイ映画はその後も「タイならでは」の独自の個性を輝かせながら発展を続けている。


参考文献:

マノップ・ウドムデート

「タイ映画−その過去から現在まで」




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